2020.12.236.No.602
「 お餅つき 」
なな.
「来年はお餅つきやらないんですか?」
小さな子供を連れて買い物に来てくれた若いママさんが帰り際にたずねてくれた。
「世の中がこんな感じだとやれないかな。」
と答える。
思えばずいぶん前から毎年欠かさずやってきた。すぐ出てきた写真は2005年我が家の末っ子はまだ1歳にもなっていない。写真の奥に座っている子供たちはすでに高校を出てそれぞれの道を歩み始めている。普段はろくに口をきかない息子が「餅つきやらねぇの?」なんて訊いてきた。呼んでも来ないくせに、、、
この餅つきも私達の当たり前の日常になっているんだな。としみじみ思う。今は亡きとらおの残した爪痕のひとつだ。
この1年、どれだけの日常が変わってしまったのだろう。ワクチンなどに関しては不穏な空気も感じられるが、どうなっていくのだろう。また餅つきを笑顔でやりたい。
最近出会った若者は「環境問題解決のために死ぬまで活動し続ける!」という。
そうだ。活動し続けるのだ。未来のために。少しずつでも。希望をつないでいこう。
今年も1年間ありがとうございました。
皆さまの新しい年が希望と喜びにあふれた年になりますように。
良い年をお迎えください。
「 異例ずくめの1年でした 」
高 志
『過去に経験したことの無い・・・』という決め台詞を、いったい今年は何回耳にしたことだろうか。もっとも、未だ先行きが見えず、更に変異種まで現れてしまった新型コロナウィルス問題からして、過去に経験したことの無い状況だけに、気候変動に関してはすっかり忘れ去られてしまっているのかもしれない。
新型コロナウィルスがいよいよ問題化した頃、日本の冬は異例の暖冬で、雪不足に頭を抱えるスキー場がほとんどであった。そのおかげで、その冬のお水採りがどれだけ助かったことか、スキー場関係者には申し訳ないほどであった。
そして緊急事態宣言が明けた梅雨の時期には、迷走台風や関東直撃の台風、九州北部を襲った線上降水帯による豪雨など、そのたびに『過去に経験したこの無い・・・』と否が応にも危機感を抱かされた。
7月いっぱいまで記録ずくめの降水量が続いたが、8月に入ると一転して猛暑が続き、今度は全く雨が降らなくなり、秋には全く台風が上陸せず、それも要因の一つとなり、海水温が上昇したままになってしまった。
事実、この秋に久しぶりに釣りに出かけたのだが、明らかに海水温が高かった。大げさに思われるかもしれないが、まだ日の出前の肌寒い中では、海水で手を温められるほどだった。
その海水温の高さが、この冬の大雪を招いてしまった。一気に南下した強烈な寒気団が、温かい日本海で大量の水蒸気を発生させ、群馬のみなかみ町ではこの時期では異例の積雪2m超えを記録したのである。
関越自動車道で1,000台を超えるクルマが立ち往生したのには、ある意味人災である要素も捨てきれないようだが、それでもこの時期にこれだけの、しかも短時間で積もること自体異例ちゅうの異例だ。
前回のお水採りの際でも気温が下がってきたのは感じられたのだが、それでも12月だからそれほどの積雪にはならないだろうと軽んじていた。前回のラ・ラビアータにも少し触れたが、当初は夜中に水の里に到着する予定を組んでしまっていた。
甘かった。関越道での立ち往生のニュースを耳にし、慌ててネットで水の里付近の道路のライブ映像を確認すると、まるで1月下旬から2月にかけての最盛期のような積雪状況であった。
まさか、12月に雪かきをしなければならなくなるとは・・・。そんな中でも、幸運であったとしか思えないのだが、路面は凍結していたけれども、除雪車が通った後だったので平らに整地されており、しかも日中でも氷点下5℃近かったので凍結路面が緩むことなく引き締まった状況にあり、ノーマルタイヤでも走行することができた。もちろん慎重に慎重を重ねて、今でいう『全集中』状態ではあったが、タイヤチェーンをしたら、作業時間も含め2~3時間要するところを30分ほどで通れたのだから幸運としか言いようがない。
それにしても寒かった。先述したが、日中でも氷点下5℃だとお水採りの際に飛び散る水飛沫が防寒着に着いて凍ってしまう。1年中水温9℃である山の水に手をつけている時は良いのだが、水から手をあげて少しでも風が吹くと、痛くて堪らない。
それでもどうにか予定本数を汲み終え、歳神様をお迎えする恒例の飾り付けも済ませ、このような社会情勢にありながらも、こうして年内最後のお水採りを終えられたことを感謝し、水の里を後にした。まだまだ先行きは見えない状況ですが、明けない夜はないので、気持ちだけは明るく笑顔で新年を迎えましょう。
今年もお世話になり誠にありがとうございました。みなさんが笑顔に包まれますように、良いお年をお迎えください!!
「 ロックと鉄瓶 」
マナ
中学校の同級生のキンコからラインがきた。
「正統派のハードロックのライブがあるから行かへん?」 キンコとは、中学時代にいっしょにバンドらしきものをやっていた。
キンコはクイーンのファンで、私はレッド・ツェッペリンだった。ロンドンではセックス・ピストルズ、ニューヨークではラモーンズなどのパンクロックも台頭してきていた時代だった。歌謡曲やポップスなんて、ダサい。他の同級生はガキやと思っていた。
私たちは、喜々として、コンサートへ、フィルム上映会へ、ロック喫茶へ飛び込んでいった。
初来日のキッスも、道頓堀の芝居小屋で「ロッキー・ホラー・ショー」もオリジナル・メンバーで観た。ザ・フーのロック・オペラ、すべてが輝いて見えた。
生活も、ファッションも、ロックが核だった。キンコは、ママさんバンドを経て、今もベースを弾き続けている。孫のためにアニメ・ソング・バンドまでやっている。私は、自分の下手さ加減に嫌気がさして、ずっと楽器に近づいていない。
今、私はハードロックをほとんど聴かない。好きだった曲で、今も好きな曲もあるけど、ここ2、3年、好きだった曲だけど気分が悪くなったりするものも出てきている。
「ごめ~ん。行きたいけど予定、入ってるねん」もしくは「このご時世やから、やめとくわ」とキンコの誘いに返そうとしたが、いや、ほんとうのことを言おうと思った。
「実は、今、ハードロックが聴けなくなってしまってん…」
そしたらキンコからライン
「私も…日頃、ハードロックは聴かん。この子らは、若手で正統派のハードロックやってやるから、応援したいのと、アンタが好きやと思って…。実は、私も、今はシカゴ・ブルースを聴いている」
そうなんや。断る時に、ほんとうのことを言えてよかった。
行きたくないといことが言えてよかった。おかげで、キンコと共有できた時間が鮮やかに残った。
Hさんは、現在70数歳で、中華料理店のオーナーシェフだった。小柄な女性なので、この方が中華鍋を振っていたと想像できない。オーガニック中華という言葉にも少し驚いた。
私が知っている中華料理は化学調味料たっぷりのイメージがある。
Hさんは、大阪の料理学校で中華料理を勉強して、東京の師匠の下で働いて、その後37年間、オーナーシェフとして、大阪でお店を切り盛りしてきた。
お店は、バラック同然の佇まいだった。看板メニューの蟹焼きそばは、原価割れしていた。売れるほど、赤字になった。でも、原価を下げるわけにはいかなかった。下げると納得できるものが作れなかったからだ。上質な端材料で作った 納得のいくメニューでようやく採算がとれた。
お店は最後まで、バラックだった。
先日、Hさんのおうちで、岩茶を飲ませていただいた。ロック・クライミングするようなところで採れる茶葉らしい。武夷山の何とかというお茶だった。
そのとき、中国茶の道具の鉄瓶をいただいた。蟹と菖蒲をあしらったものだ。 もう、重くて使わないので、ということだった。
どこかで、こんな当たり前のことを聞いた。好きなことをしていると、分かれ目があって、社会的立場を優先してしまうのか、自分の心に従うのかという分かれ目に必ずあう。前者を選び続ければ、好きでなくなる、という。
毎瞬、選択はやってくる。
毎朝、鉄瓶でお湯を沸かす。
白湯をすすりながら、私は、自分の心の声に従っているのだろうかと考える。
0コメント