2021.02.20.No.606
アース・オーバーシュート・デイ
1年分の資源を使いきる日
いま、人類は、1年間に地球が再生産できる自然資源の量を上回って資源を使っています。世界全体で、1年間に使えるだけの資源の量を使い切ってしまう日のことを「アース・オーバーシュート・デー」といい、国際的な研究機関「グローバル・フットプリント・ネットワーク」が算出して発表しています。
2020年、この日は8月22日と発表されました。世界中に広まった新型コロナウイルスの影響で、昨年よりも1カ月近く遅くなりました。外出自粛やロックダウンにより、人びとの活動が減り、工場や商店の休止など経済活動が止まったことで、CO2の排出削減や資源利用の減少につながりました。これが昨年よりも遅くなった理由だと言えます。
しかし、新型コロナウイルスが発生するまで、近年の傾向では、だんだんとこの日は早まっていました。そして、遅くなったとはいえ、人類は8月22日にその年に使える資源を使い切っている計算となります。つまり、人類は、生態系が再生する早さよりも1.6倍速く自然資源を消費しており、足りない分は将来の人びとが使うはずだった分を先取りして使っているのです。言いかえると、人類がいまの暮らしをこのまま続けるためには、1.6個分の地球が必要だということになります。
オーバーシュート・デーは、国ごとにも算出されています(上の図)。2020年の日本のオーバーシュート・デーは、5月12日と発表されました。世界の平均よりもおよそ3カ月半早く、資源を使い切っている計算です。
資源を使いすぎる生活は、温暖化や気候変動、さまざまな環境問題につながっています。1個の地球で暮らし続けるために、知恵を出し、協力して、資源を使いすぎない暮らしを作り上げる必要があります。
出典:Global Footprint Networkホームページ“
Earth Overshoot Day is August 22, more than three weeks later than last year” 2020年6月
図表 同ホームページ "Earth Overshoot Day Infographics"
解ってはいたつもりだけど、感覚にずいぶんずれがあった気がする。事態は急を要す。
なな.
「 若者たちと 」
高 志
お水採りや配達をしていると、車に乗る時間が多いので自然とラジオのヘビーリスナーになる。そう言うと、車に乗るようになってからリスナーになったように受け取られると思うが、思い返せば元々は中学の頃からオールナイトニッポンに始まり、NHK-FMのサウンドストリートなど小さなラジカセにつないだヘッドフォンをしながら、夜な夜な布団に潜り込んで笑いを堪えていたのが懐かしい。
社会人となって営業職につくと、当時営業車にはAMラジオしか搭載されていなかったので、否が応にもAMラジオのヘビーリスナーになり、今に至る。
ラジオからの情報は、TVに比べると制約が少ないこともあり、一般的に報道されている裏側を知る機会に巡り合えることもあり、なかなか興味深い。
そして今回、お水の里の帰りに聞いた話には、感銘をおぼえた。その番組には、今年還暦を迎える岩下尚史さん(通称はこちゃん)が出演されていた。この番組のスタッフが若い人たちに一新されたのを機に、人生の先輩である岩下尚史さんにアドバイスを求めるというものであった。
以前から、今の若い人たちは僕たちが持ちえた既成概念に囚われず、新しい感性で、次なる明るい未来を築くべく大いなる可能性に満ち溢れているなあと感心させられる事が多かった。だから自虐的に、『これからの時代は、20代以下の若者たちに全て任せて、なるべく僕ら上の世代が彼等の邪魔をしないようにすれば、きっと未来は明るい』というようなことを口にしていた。
それに呼応した訳ではあるはずもないのだが、岩下尚史さんのアドバイスはこの月曜日に株価が30年ぶりに3万円台を超えたと言うニュースを引き合いに出し、『この30年間、50代以上の大人たちは全く無能だったのだから、そんな大人たちの言うことなんて聞き流していれば良いのだ』と言うようなことを話されていた。
くしくも、今、世間を賑わせている問題で『老害』なる言葉が脚光を浴びたが、時代の流れは確実にそう言った方向に向かっているようだ。もちろん、経験に勝るものはないとも言われるし、歴史を知らなければ、過ちを繰り返すということは歴史が証明している。
その語り部となる人生の経験者を追い払えというのは愚の骨頂なのだが、良きアドバイザーにはなり得ても、先頭に立つ時代ではなくなってきているのだろう。
前回、前々回のラ・ラビアータでも紹介されているBENIRINGO代表の藍奈ちゃんしかり、二十歳前後の若者たちは地球規模の視点で活動をしたり、気軽に世界を飛び回り、実際に自分の目で現実を確認している者が多い。
そして様々な国の人と出会い、自分の意見を明確に持ち、それを口にしたり行動に移すことが日常になって来ているようだ。
そう言うと、半世紀以上前の学生運動の頃を引き合いに出されそうだが、今の若者たちは敵対意識が少なく、いわゆる多様性の感覚を持ち合わせている。30年前、大学の教室で繰り広げられていた相手の破たんした論点をつつき合う無意味なディベート大会とは、180℃真逆な立ち位置にいるのだ。
こうした若者たちを面白がり、積極的に重宝し、関わりを持とうとする大人たちも目立つようになってきた。互いを尊重し、認め合うこと。それにはまず、相手を知ること。
そんな大人に自分はなれるだろうか。若者たちに、時代の流れに取り残されぬよう、それでも自分の感性は失わないようにいたいと思う。
世界情勢は混沌としてきている。間違いなく時代は変化を求めている。変わりゆく時代、面白くなってきた。
「 寝覚めのいい人 」
マナ
寝覚めのいい人になりたい。
どこででも、すぐ寝られる人が羨ましかった。歳とともに、そんなに眠れるもんじゃないとわかってきたから、それはしかたないと思った。
子どもの頃、みんながイヤイヤ朝起きていると思っていた。物心ついた頃から、朝起き、まして早起きなんて苦行だと思い込んでいた。冬の朝なんて、ぞっとする。夏休みだって、早朝にラジオ体操に駆り出されなきゃならないなんて、恨みがめしい限りだった。遠足の朝だって、もっと寝ていたかった。 毎朝、目が覚めると何だかうれしい、布団でじっとしていられないという人がいるのを、はじめて知ったときは、驚愕した。
7時前、仕事の早出の日にすれ違う、きちんとした身なりで犬の散歩をしている人や格好いいスポーツ・ウェアで走っている人が、まぶしい。
私はといえば、泣きの涙で起きて、社会情勢をいいことに化粧もせずマスクと帽子をかぶって、足早に駅へと向かう。
遅出の時も、日が昇っているのに、往生際悪く布団にしがみついて、ちらちら時計を見ながら、しぶしぶ起きる。
そんなに寝ることに執着があるんやったら、さっさと夜も寝ればいいのに、ぐずぐず起きている。
ああ、また朝が来た。やれやれ。という感じだ。
日中は、割と明るく、楽しくやっているのだけど、朝だけはいけない。目が覚めた瞬間に心細い。
二日酔いの時は、もっといけない。
毎朝、目が覚めたら、ワクワクする。
切にそうなりたい。
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